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小磯良平

清楚で静謐な作風で知られる神戸ゆかりの洋画家、小磯良平。
異国情緒漂う港町神戸のモダンな空気のもと、クリスチャンの母親の影響を受け、小磯良平は幼い頃から和洋折衷な環境の中で育ちました。絵が大好きだった少年は洋画家を目指し東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、首席で卒業。その後二年間のパリ留学中に様々な西洋芸術に触れるべくヨーロッパ中の美術館を巡り神戸に帰郷します。帰国後は画家仲間とともに新制作派協会(現・新制作協会)の結成に加わります。以後精力的に活動し、正統的な古典主義芸術を追求しました。

ところで小磯良平の作品として一般的によく知られているのは美しい女性の肖像画ではないでしょうか。着物を着た清楚な貴婦人からドガの踊り子を彷彿させるようなバレリーナ姿の少女まで、小磯良平氏は様々な女性像を作品に残しています。その卓逸したデッサン力で描かれた肖像画の女性達はどれも清楚で気品にあふれていて、爽やかな印象を見る側に与えてくれます。

晩年の小磯良平は自然光の入る大きな窓のあるアトリエで午前中の制作を好みました。朝早くに起床してアトリエに赴き、まず大好きな珈琲を飲むことが日課でした。そしてモデル達はだいたい決まって午前中に小磯良平のアトリエに赴いていました。午前中二時間ほど制作に励んだ後は大好きなクラッシック音楽を聞いたりしながらゆったりとした時間を過ごしていたようです。

小磯良平が他界する前年に「帽子の少女」が描かれ、これが絶筆といわれています。晩年に絵筆を強く握る力がなかった小磯良平は画材としてパステルを選びこの作品を描きました。優しい微笑みを浮かべている少女の顔が柔らなパステルのタッチで描かれた作品です。

彼の描く女性像にはどれも朝の光のベールをまとっているかのような爽やかで柔らかい美しさが感じられるのは、それがテクニックや才能だけではない、小磯良平のもつ穏やかな人柄やその生き方がそこに反映されているからなのかもしれません。

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by galerie-h | 2015-11-30 12:29

マティスの切り絵

「私が夢見るのは人の心を乱し、気を滅入らせるような主題のない、調和のとれた、純粋で静謐な芸術である」アンリ・マティス

アンリ・マティスといえば20世紀を代表するフランスの芸術家の一人としてその名を広く知られています。マティスよりも11歳年下だったピカソは彼と友人でありましたがその一方でライバルでもありました。かのピカソがライバル視したマティスとは一体どのような芸術家だったのでしょう。

マティスは「色彩の魔術師」といわれ、のびのびと自由なタッチで大胆かつ鮮やかな色彩を特徴とする作品を多数つくりあげていきました。その作風からマティスの作品は野獣派(フォーヴィスム)と呼ばれ、彼は野獣派の代表作家として当時見なされました。しかしながらマティスはその事をこころよくは思っていませんでした。彼は当時次のような言葉を残しています。

「わたしは人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」

そのような思いを実現させるかのように後に南仏に移り住み画風がかわってゆきます。
そしてマティスは晩年に新しい命ともいえる新たな作風を生み出すことになりました。大病を患い車いす生活を余儀なくされたマティスは油絵の絵筆をベッドの上で握ることができなくなりました。そこで助手に手伝ってもらいながらガッシュで着色した紙をはさみで切り抜いていく『切り絵』という新しい手法によって、絵画の創作活動を続けてゆきました。その方法は自然などを見て感じた感情や感覚をダイレクトに面や色彩で即興に表現していけるため、マティスにとってハサミは絵筆に取って代わる大きな道具となりました。そしてこれが後に晩年の傑作ともいわれる版画作品「ジャズ」シリーズへと昇華されてゆきました。

近年、大規模なマティスの切り絵展がロンドンの近代美術館テート・モダンで開かれましたが、ロイター通信によるとその時の入場者総数は56万人超となり、2000年にオープンしたテート・モダンで初めて50万人を突破する展覧会となったようです。テート・モダンの館長は「あらゆる年齢層のイマジネーションに訴えた展覧会だった」というコメントをしています。
生きる喜びを表現するかのような鮮やかな色彩にあふれ、躍動感のある切り絵の作品の数々にあらゆる人々が心動かされたのではないでしょうか。晩年の切り絵制作をしていたマティスの人生は決して恵まれた状況ではありませんでした。第二次世界大戦の頃で家族とは離別、そして前述したように大病を患い絵筆も握れなくなってしまいました。そのような状況にあってもマティスが芸術を放棄せず多くの人々の心に訴える素晴らしい切り絵の数々を創造してきたことに畏敬の念を抱かずにはいられません。

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by galerie-h | 2015-11-30 12:25
前回のブログの記事で、ストリートアートの先駆者であるキース・へリングについて少し言及しました。今回は彼がバルセロナに残したある壁画についてお話ししたいと思います。
キース・へリングはニューヨークのマンハッタンをはじめとして世界中の主要都市にて壁画を制作し、公共空間での活動を精力的に行ったアーティストです。
そのような彼がバルセロナに訪れる事になったのはひょんなことがきっかけでした。
ニューヨークのとある展覧会で、カタルーニャの美食家モンセがキース・へリングと出会います。そしてその金曜日の午前二時に、あるナイトクラブでキース・へリングは美食家モンセがなげかけたひとつの提案に承諾をするのです。それはモンセの故郷であるバルセロナにキース・へリングが壁画を制作すること。その提案の次の日には早速バルセロナの市庁舎の許可を申請し、その24時間後にはバルセロナの壁画は完成していました。つまり、金曜日に依頼された壁画を完成させるべく、さっそく次の日にキース・へリングはニューヨークを飛び立ちバルセロナへとおもむき、日曜日には壁画を現地で完成させたのです。驚異的な早さとフットワークではないでしょうか。それは1989年の2月27日のことで、キース・へリングはわずか五時間ほどで下書きなしに高さ2メートル、横の長さが約30メートルの壁画を仕上げました。キースは彼の友人や彼のファン、また興味をもった近隣の住民といった見物客に見守られる中、ラジカセを側においてエレクトロニック・ミュージックを聞きながらリズミカルに壁にドローングを仕上げていきました。赤一色で描かれたその壁画の内容はセンセーショナルなものでした。エイズを象徴するかのような大きな蛇が人々に脅威を与えています。そこから逃げようとする人々、蛇をハサミで切ろうとする人、戦おうとする人。そして人々が手と手をとりあって元気に踊っている姿の上に次のようなスペイン語の言葉が書かれています。
Todos juntos podemos parar el sida”.(皆で一緒にエイズをとめられる)

壁画が描かれた場所は当時決して治安がよいとはいえなかったバリオ・チノと呼ばれるところでした。彼がその壁画を仕上げた次の日には新聞がその事をとりあげ、壁画に対する様々な人の反応を紹介しました。街の行政の人間がこの地区の治安をよくするためには大変よい壁画だと賞賛する一方であるバーの経営者はこの壁画は顧客を減らしてしまう営業妨害の道化だとののしる人もいました。
このキースが制作した壁画は街の区画整理等のため、なんと92年に壊されてしまいます。しかしながら復元するためにオリジナルの複製はあらかじめとられていました。その復元されたものは96年にバルセロナのとある建物に設置されていたものの、他の国内有名作家の壁画に変えられてしまい、どこにもかざられないまま年月が過ぎてゆきました。それが昨年の2014年にバルセロナのラバル地区にある現代美術館MACBAに隣接した壁に復元されました。
大きなメッセージが込められたバルセロナにあるキース・へリングの壁画は、不死鳥のごとくラバル地区に再びよみがえったのです。

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by galerie-h | 2015-11-02 12:39