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12月になると、クリスマスの時期が到来したことを告げるかのように、街や店舗のショーウィンドーが、クリスマスの飾りつけやイルミネーションで鮮やかに彩られる光景が目に付きます。 この時期には様々な種類のクリスマス用のグリーティングカードが店舗に並んだりします。欧米人にとってこのクリスマスカードはとても馴染みのあるもの。クリスマスカードの起源は古く1840年にまで遡りますが、クリスマスカードを送る習慣が普及するのは、印刷技術が進歩して大量生産が可能となる時代になってからのことです。


1956年、宝飾品でその名が知れたティファニー社はアンディ・ウォーホルにクリスマスカードのデザインを依頼しました。そして1962年まで毎年ウォーホルがデザインするクリスマスカードがティファニー社によって発行されました。アンディ・ウォーホルはクリスマスツリーや星、プレゼントなど沢山のクリスマスのモチーフを繊細なタッチで描きました。とりわけ、ウォーホルは食べ物をクリスマスカードのテーマとしてよく使いました。ワインやフルーツが沢山詰められたバスケットに、赤いリボンがかかっている様子など、人々が思い描く幸せで完璧なクリスマスのイメージがアンディ・ウォーホルによってクリスマスカードの一枚、一枚に表現されました。クリスマスというテーマ自体がアーティストとしてウォーホルに興味を与えたようですが、実際にとても本人はクリスマスが大好きだったようです。アンディ・ウォーホルはポップな物が大好きでした。考えれば、今私たちが街で目にする『クリスマス』は大変「ポップなもの」と言えます。現代のクリスマスは物質的で、全世界中に知られていて、キッチュで民主主義的で。。その実、中身は空虚な資本主義の大量消費のクリスマス。何ともウォーホルが喜びそうなテーマが『クリスマス』に詰まっています。


実際のところ、アンディ・ウォーホルは子供時代にアメリカらしい完璧なクリスマスというものを経験していません。それは彼の家族が貧しかったということ、又、移民でありビザンチンカトリックの家であったため、ウォーホルの家ではクリスマスは1月6日に祝っていたのです。


ニューヨークの教会で、慈善の食事を配る生前のアンディ・ウォーホルの姿が映っている写真が今に残っています。その写真についてある記者が「そこには何の飾りつけも見えない、だがそこにクリスマスが見える」と発言しています。

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# by galerie-h | 2018-12-03 11:47

長谷川潔の黒


街を歩く人々の服装に黒色のコーディネートが増えるようになると、季節も移ろい、だんだんと寒い季節になってきたのだなと感じます。


 黒色とはすべての色が包括されている宇宙のような色。そして黒は派手な色彩にも負けず劣らずの強い自己主張をする色でもあります。

明治に生まれ、大正、昭和期に活躍した黒の版画家と言われる長谷川潔は黒の手法を極め、黒色を基調、メインカラーとした作品を数多く手がけました。

その作品は静謐で凛然としています。まるで時が静止してしまったかのような、独特の世界観へと鑑賞者を引き込む強さがあるのは、その作品が持つ独特の黒い色も関係しているように思われます。


 長谷川潔の人生について少し言及すると、裕福な家庭に生まれるものの、10代の時に兄弟と父親を亡くし、中学を卒業する頃に母親を失います。好きだった美術の道は、洋画研究所に入り黒田清輝や岡田三郎助、藤島武二から師事を受けました。その後大学には進まず、フランスへ渡ります。版画技術の習得に励み、作品を出品したり個展を開くことで高い評価を得ます。しかしその後、第二次世界大戦の影響で苦境に立たされます。それでも日本の地を二度と踏むことはなく、戦後に創作をフランスで再開し、数々の作品を発表してゆき、パリで静かに息を引き取りました。


長谷川潔がその人生において、幼少期からどれほど精神的に深い絶望や喪失感を味わい、異国において、幾多の苦難を乗り越えてきたのか、ということに思いを馳せると、長谷川潔の生み出した黒い色は、その人生から抽出したエッセンスのような、深く重い色のようにも思われます。


「黒には7色の色がある」   長谷川潔


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# by galerie-h | 2018-10-29 11:53

竹久夢二

ある事に秀でたアーティストが、全く違う分野においてもその才能を発揮したり、様々な事に挑戦したりという例は現代において、枚挙にいとまがありません。


様々な分野において活躍するアーティストの事を総称してマルチアーティストと言うことがあります。

マルチアーティストという言葉は、現代において飽和状態に達しているとまでは言いませんが、よく耳にします。しかしそれが100年前となると、どうでしょうか?

まだマルチアーティストという言葉も使われていなかった大正時代に、マルチアーティストの先駆者とも言える人物が日本にもいました。その人物とは美人画で知られる竹久夢二です。


竹久夢二は叙情性に富んだ独特の美人画を描いた挿絵画家として広く知られていますが、本の装丁や便箋などの商業デザインも数多く手がけ、日本における商業デザイナーの草分け的存在としても今日評価されています。そのような竹久夢二が、ある歌の作詞をしていた事はご存知でしょうか。ラジオやテレビなどのメディアによって、それと知らず耳にされた事がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。


『宵待草』という歌の歌詞を竹久夢二が手がけました。厳密に言うと、夢二は歌のための歌詞を書こうとして書いたのではありません。『宵待草』は、竹久夢二の詩歌を原詩としています。夢二は、ある自分のはかない恋の体験に基づく胸の内の悲しみを、詩に綴りました。

その後、バイオリニストによって作曲され、抒情歌『宵待草』が誕生しました。『宵待草』がセノオ楽譜から発刊されると、これを機に全国的に愛唱されることになりました。


竹久夢二の絵を視覚からではなく、音によってその叙情性を感じることのできる『宵待草』を秋の夜長に聞いてみてはいかがでしょう。

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# by galerie-h | 2018-10-02 11:19

パウル・クレーは生前、現代絵画の巨匠は二人いて、それは一つの花の名に表されていると言いました。

その花の名はクレマチス(クレーとマチス)。冗談好きだったパウル・クレーの言葉なので、どこまで本気で言ったのかは知る由もありませんが、言葉あそびで実にうまく言ったものですね。ですが、クレーと同時代の巨匠で、決して忘れてはいけない人がいます。あのパブロ・ピカソです。


クレーとピカソは同世代で、クレーがピカソより2才年上でした。興味深いことに、国も場所も違いますが、クレーもピカソも各々の経歴の中で、美術学校を退学しています。おそらく、この二人の芸術家は学校という枠には収まりきらない、個性と才能をアカデミックな場で持て余していたのかもしれません。

その後、クレーもピカソも互いに旅や様々な経験をする中で、自分達の絵画を追求して、スタイルを確立していきます。


一般的に、クレーの絵は小さく、ピカソの絵は大きいです。クレーが内向的であったのに対して、ピカソは外向的でした。ピカソが書き残した文章には、クレーは小さな作品の巨匠で、ピカソ自身は大きな作品の巨匠だと言っています。このような言葉を残したピカソは、クレーを高く評価していたのでしょうか。

いずれにせよ、ピカソがクレーに興味を持っていたのは間違いないようです。というのもピカソとクレーはその生涯において二度だけ個人的に顔を合わせているのですが、二度目の出会いは画商の仲介によって、ピカソが直々にスイスまで来てクレーを訪問したようです。ピカソは芸術家をわざわざ訪問したりはしなかったと言われていますから、興味深いエピソードです。クレーはピカソと最後に会った二年後にピカソを意識した「泣く女」を描きました。


クレーにとってもピカソは常に気になる存在であったようで、作品の中でピカソへのオマージュや、ピカソのパロディーを描いたりしました。


クレーとピカソ、この二人の芸術家の絵画は非常に異なってはいますが、この二大巨匠は同時代を生き、間接的であれ直接的であれ、互いに影響を与えたり、受けたりした二人だったのです。

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# by galerie-h | 2018-08-31 11:47

北アフリカの血が混ざっていたため、茶色の大きな目と黒い髪の毛を持ち、砂漠の遊牧民のような風貌をしていたパウル・クレー。音楽に満ちあふれた家で育ち、その芸術的感性と才能を自然と幼い頃から育んでいきました。


「クレーの日記」によると、「まだ年もゆかないこの私に、クレヨンで画を描くことを教えてくれたのは、この祖母だ」と書かれています。この祖母というのは母方の祖母で、彼女はクレーが幼い頃に、線画を描いてみせたようです。後にクレーは線描画家としてスタートしますが、それは幼児期に祖母から絵の手ほどきを受けたことによる端を発するようです。


クレーは高校卒業後、自分の進むべき道、進路に悩みます。文学に没頭するのか、音楽を創造していくのか、考えた末に、造形芸術に心惹かれ、美術の勉強のためにドイツへ行き画塾に入り、その翌年に美術学校に入学します。その頃のことをクレーは次のように回顧しています。


「みのり多い美術学校時代を過ごせるように、いろいろ努力してみたが、私が本当に力を入れて勉強したのは造形美術ではなく、むしろ文学的・詩的なものだったように思う。なぜまた美術学校などへ行ったのか。叔父や叔母に聞かれたとき、『はい、私も美術学校を卒業したのです』と答えられるため?」


画家パウル・クレーの道は決して初めから平坦なものではなかったのです。

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# by galerie-h | 2018-07-31 12:38