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by galerie-h

竹久夢二

ある事に秀でたアーティストが、全く違う分野においてもその才能を発揮したり、様々な事に挑戦したりという例は現代において、枚挙にいとまがありません。


様々な分野において活躍するアーティストの事を総称してマルチアーティストと言うことがあります。

マルチアーティストという言葉は、現代において飽和状態に達しているとまでは言いませんが、よく耳にします。しかしそれが100年前となると、どうでしょうか?

まだマルチアーティストという言葉も使われていなかった大正時代に、マルチアーティストの先駆者とも言える人物が日本にもいました。その人物とは美人画で知られる竹久夢二です。


竹久夢二は叙情性に富んだ独特の美人画を描いた挿絵画家として広く知られていますが、本の装丁や便箋などの商業デザインも数多く手がけ、日本における商業デザイナーの草分け的存在としても今日評価されています。そのような竹久夢二が、ある歌の作詞をしていた事はご存知でしょうか。ラジオやテレビなどのメディアによって、それと知らず耳にされた事がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。


『宵待草』という歌の歌詞を竹久夢二が手がけました。厳密に言うと、夢二は歌のための歌詞を書こうとして書いたのではありません。『宵待草』は、竹久夢二の詩歌を原詩としています。夢二は、ある自分のはかない恋の体験に基づく胸の内の悲しみを、詩に綴りました。

その後、バイオリニストによって作曲され、抒情歌『宵待草』が誕生しました。『宵待草』がセノオ楽譜から発刊されると、これを機に全国的に愛唱されることになりました。


竹久夢二の絵を視覚からではなく、音によってその叙情性を感じることのできる『宵待草』を秋の夜長に聞いてみてはいかがでしょう。

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# by galerie-h | 2018-10-02 11:19

パウル・クレーは生前、現代絵画の巨匠は二人いて、それは一つの花の名に表されていると言いました。

その花の名はクレマチス(クレーとマチス)。冗談好きだったパウル・クレーの言葉なので、どこまで本気で言ったのかは知る由もありませんが、言葉あそびで実にうまく言ったものですね。ですが、クレーと同時代の巨匠で、決して忘れてはいけない人がいます。あのパブロ・ピカソです。


クレーとピカソは同世代で、クレーがピカソより2才年上でした。興味深いことに、国も場所も違いますが、クレーもピカソも各々の経歴の中で、美術学校を退学しています。おそらく、この二人の芸術家は学校という枠には収まりきらない、個性と才能をアカデミックな場で持て余していたのかもしれません。

その後、クレーもピカソも互いに旅や様々な経験をする中で、自分達の絵画を追求して、スタイルを確立していきます。


一般的に、クレーの絵は小さく、ピカソの絵は大きいです。クレーが内向的であったのに対して、ピカソは外向的でした。ピカソが書き残した文章には、クレーは小さな作品の巨匠で、ピカソ自身は大きな作品の巨匠だと言っています。このような言葉を残したピカソは、クレーを高く評価していたのでしょうか。

いずれにせよ、ピカソがクレーに興味を持っていたのは間違いないようです。というのもピカソとクレーはその生涯において二度だけ個人的に顔を合わせているのですが、二度目の出会いは画商の仲介によって、ピカソが直々にスイスまで来てクレーを訪問したようです。ピカソは芸術家をわざわざ訪問したりはしなかったと言われていますから、興味深いエピソードです。クレーはピカソと最後に会った二年後にピカソを意識した「泣く女」を描きました。


クレーにとってもピカソは常に気になる存在であったようで、作品の中でピカソへのオマージュや、ピカソのパロディーを描いたりしました。


クレーとピカソ、この二人の芸術家の絵画は非常に異なってはいますが、この二大巨匠は同時代を生き、間接的であれ直接的であれ、互いに影響を与えたり、受けたりした二人だったのです。

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# by galerie-h | 2018-08-31 11:47

北アフリカの血が混ざっていたため、茶色の大きな目と黒い髪の毛を持ち、砂漠の遊牧民のような風貌をしていたパウル・クレー。音楽に満ちあふれた家で育ち、その芸術的感性と才能を自然と幼い頃から育んでいきました。


「クレーの日記」によると、「まだ年もゆかないこの私に、クレヨンで画を描くことを教えてくれたのは、この祖母だ」と書かれています。この祖母というのは母方の祖母で、彼女はクレーが幼い頃に、線画を描いてみせたようです。後にクレーは線描画家としてスタートしますが、それは幼児期に祖母から絵の手ほどきを受けたことによる端を発するようです。


クレーは高校卒業後、自分の進むべき道、進路に悩みます。文学に没頭するのか、音楽を創造していくのか、考えた末に、造形芸術に心惹かれ、美術の勉強のためにドイツへ行き画塾に入り、その翌年に美術学校に入学します。その頃のことをクレーは次のように回顧しています。


「みのり多い美術学校時代を過ごせるように、いろいろ努力してみたが、私が本当に力を入れて勉強したのは造形美術ではなく、むしろ文学的・詩的なものだったように思う。なぜまた美術学校などへ行ったのか。叔父や叔母に聞かれたとき、『はい、私も美術学校を卒業したのです』と答えられるため?」


画家パウル・クレーの道は決して初めから平坦なものではなかったのです。

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# by galerie-h | 2018-07-31 12:38



人は何故、旅に出るのでしょう。


おそらく、旅をした人ならば誰にでも、「忘れられない旅」というものがあるのではないでしょうか。


前回の記事で、音楽を愛した芸術家、パウル・クレーについて書かせていただきましたが、このアーティストにも「忘れ得ぬ旅」というものがあります。

その旅はパウル・クレーに、とても強いインスピレーションを与えました。


パウル・クレーが、一体どこへ旅に行って強い感銘を受けたのか、想像がつきますか

その旅の行き先とは北アフリカの「チュニジア」でした。それは一見、スイス出身の画家パウル・クレーとは結び付きにくい場所かもしれません。しかしながら、この地はクレーにとって所縁のある土地でもあるのです。実はクレーの母方の家系はさかのぼると北アフリカの血が混ざっているといわれます。


1914年の春、パウル・クレーは友人とともに北アフリカのチュニジアへ旅立ちました。チュニジアの照りつける太陽の光の下、砂漠の色やオアシスなどの原色の世界が、眩いばかりにパウル・クレーを幻惑させたのでしょう。この旅で感じたことをパウル・クレーは興奮気味に手記に残しています。


「色彩が私を手に入れてしまった。これが幸福のひと時でなくて何だろう。」


その旅行以後、パウル・クレーの作品は大きな変容を遂げました。

チュニジアへの旅は、パウル・クレーに色彩開眼をさせた、まさに「忘れ得ぬ旅」だったのです。

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# by galerie-h | 2018-06-29 13:37

英語やフランス語で「女神」を意味するミューズという言葉、その語源はギリシア神話のムサ(ムーサ)からきています。ギリシア神話では文学や芸術を司る女神たちのことをムサと言います。そしてこの「ムサ」という言葉から産まれた、ミューズという言葉は、ヨーロッパの多くの国で派生して、ムシカ、ミュージック(音楽)、ミュゼ、ミュージアム(美術館、博物館)という言葉が生まれました。


便宜上、音楽と美術という、それぞれ違うカテゴリーに分かれてはいるものの、その語源の大元が同じものであるというのは大変興味深いものです。美術は好きでも音楽はそれほどではない、という人もおられるかもしれませんが、ここでは美術も音楽も非常に愛した芸術家について少し触れたいと思います。


キース・ヘリングは、ラジカセなどで大音量でロックを聞きながらライブ・ペインティングを行いました。

小磯良平は朝、作品の制作前や制作後にアトリエで大好きなクラッシックをよく聴いていたといいます。

奈良美智はパンクやロックを聞きながら作品を制作したりするようです。

例を挙げればきりがありませんが、芸術家と音楽は密接に結びついていることが多々あります


様々な古今東西の芸術家の中でも、一際音楽を愛した芸術家がいます。パウル・クレーです。音楽一家の元に生まれたパウル・クレーは幼少から音楽に親しみ、幼くしてスイスのオーケストラに籍を置くほど、ヴァイオリンの腕はプロ級でした。その後様々な迷いの中で、絵画の道を選択しました。そうしてその選択のおかげで、今日私たちはパウル・クレーの素晴らしい作品の数々を鑑賞することができます。




「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、目に見えないものを見えるようにするものである」

                Paul Klee

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# by galerie-h | 2018-05-31 11:30