ボテロとピカソ その2
2021年 02月 25日
前回、過去に南仏で行われたボテロとピカソの展覧会について少しご紹介させていただきました。ボテロは才能だけでなく、そのたゆまない努力によって、今日ピカソに並ぶほどの芸術家として位置付けられています。しかしながら、南米出身の画家がここまで歩んできた道のりを振り返ると、それは決してなだらかな道ではありませんでした。
ボテロは最初から画家の道を邁進していたわけではなく、叔父の頼みで全く違う道を歩もうとしていました。しかしながら、その違う道は、思いがけないアクシデントで閉ざされました。その後、ボテロはやはり自分が進みたかった芸術への道に進み始めます。16歳の頃、生まれ故郷で展覧会を開き、その後、地元の新聞紙のためにイラストなどを描き、その報酬を美術学校に通うための資金とするなど、順風満帆なスタートのように思えました。
しかし、ある時、ボテロがピカソについての記事を書いたことがきっかけで、美術学校を強制退学させられることになってしまいます。保守的な美術学校にとって、ピカソについて書いた記事、ボテロの持つ思想や絵画スタイルは問題視されてしまいました。
そうして美術学校に通えなくなってしまったボテロは、その場所からの移動を余儀なくされました。そしてコロンビアの新しい場所で、何の因果か、その地の囚人の姿を見たことをきっかけに心を動かされたボテロは、それを絵画で表現しました。その絵画が、なんと、当時驚くほどの多額の賞金を得ることとなります。そしてそれはボテロがヨーロッパへと旅立つ資金となったのです。
ピンチがチャンスになるとはまさにこのこと。
そしてその始まりは、そもそもボテロが敬愛していたピカソについての記事を書いたことが大きなきっかけとなったのですから、ピカソはボテロの恩人とも言えるかもしれません。
ちなみにボテロは生前のピカソに一度も対面できていません。ピカソが晩年南仏で暮らしていた頃に、友人の紹介でピカソの家を教えてもらい、そこまで足を運んだそうですが、当日ピカソのマネージャーに、
「ピカソとコンタクトを取る約束はしているか?」と聞かれ、
何もピカソと約束はしていないことを言うと、そこで門前払いされてしまったようです。
もしもボテロとピカソの面会が実現されていたら、ピカソはボテロにどんな発言をしたことでしょう?
ボテロはあるインタビューで、もしも生前のピカソに会えていたならば、、、
「あなたの偉業をずっと敬愛して憧れていましたよ」
と言っただろうと語っています。