上村松園(絵に込められた思い)中編
2019年 10月 30日
前回の記事でも書きましたように、上村松園は1918年(大正18年)に「焔」を書き上げ、この作品により世間の松園への評価は更に高まりました。
しかしながら、この作品を発表後、上村松園は三年間、新しい作品を展覧会に出品することはありませんでした。
その後、また絵筆を握り続ける上村松園に母の死が訪れます。1934年(昭和9年)母親の仲子が死去します。上村松園の画業人生をずっと影から支えてくれていた母親の死は、松園にとって大きく、深い悲しみであったことは容易に想像できます。
上村松園の母親は夫を亡くしてから、(松園の父親は彼女が生まれる前に亡くなっています)女手一つで二人の娘を育てました。その一人が松園です。
当時、女性が教育を受けたり、ましてや絵を習うということは、決して当り前のことではありませんでした。しかし、幼い頃から絵を描くことが得意であった松園の資質を見いだし、松園の母親は松園を京都の画学校へ入学させます。親戚などの周囲から猛反対されても、上村松園の決意とそれを支える母親の信念は揺るぐことはなかったのです。
松園にとって最高の理解者であり、支持者であった母親が亡くなった年に、彼女は「母子」という作品を描きました。我が子を大事そうに抱き、優しく、愛おしげなまなざしで見つめる母親の姿が印象的な作品です。
それ以降、松園の作品には母性を描いたものが多くなります。それは松園の最愛の母への追慕から生まれた作風でした。
そしてそれは美しいだけではなく、あたたかく、どこか郷愁に満ちています。
「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」
上村松園